「最澄と天台宗のすべて」展行ったのよ
そういえば書いてなかった。
完全におかざき真里先生の『阿・吽』の影響なのですが、「最澄と天台宗のすべて」展に行ったのよ……
写真まっすぐ撮れてないね。
行ったのは去年の東京。今は九州なのね。
なんか珍しいですよね、最澄って。
最澄と空海って、歴史の授業でほぼペアみたいな感じで習うけれど、なんか空海のほうがメジャーじゃないですか?わたしだけ?主にスピ系で、めちゃくちゃ力のある人物として名前をよく見る。(あと三筆としても有名で、『阿・吽』ではそのあたりの描写もあるので文字族としてはとても好き。)
ちなみに最初に見たのはここかな……
高知編ってこのあたり??
だから『阿・吽』読んで、へ~、と最澄が意識の中に入り、
今回の展示見て、あ、ほんとに背が大きかったんだ……って思い(背丈が記された資料があったと思ったんだけど、図録見返しても見つけられない……何かの説明書きにあったのかな)
中国へ渡る行程や地図資料を見て、中国に行き仏教を修め、その仏教で人々を救うんだという並々ならぬ決意を感じ、
亡くなる直前に悲願が成就した史料を見て、最澄……!!って泣いた。
博物館で泣いたの初めてや……
泣いたのは、
国宝 光定戒牒 嵯峨天皇宸筆
という資料。
この資料をまた見たくて、初めての図録お持ち帰りをしてしまいましたよ。
図録326ページの解説から一部引用しますね。
最澄の高弟、別当大師光定(七七九~八五八)が、延暦寺一乗止観院(根本中堂)で大乗菩薩戒を受けた時の戒牒。最澄は、大乗戒独立を奏上してきたが、実現せずに生涯を終えたとされてきた。しかし近年の研究で、最澄入滅の前日に嵯峨天皇の勅許が下りていたことが確認される。そしてよく弘仁一四年四月十四日、天台宗初めての戒会が開かれ、光定も受戒した。その受戒にあたって、嵯峨天皇が宸筆でしたためたのが本書である。
三筆のひとりでもある嵯峨天皇の宸筆…!(『阿・吽』でも三筆らしい描写があって個人的に好き)
また、図録56ページの皿井舞さんのコラムからも一部引用。
生きとし生けるものすべてが救われると信じた最澄は、悟りを開くことのできる者は限られると主張する南都仏教を厳しく批判し、南都の方式でしか受戒できなかった当時の制度を変えたいと強く願った。そこで最澄は、三司の管轄下を離れ、南都の小乗戒とは異なった大乗戒による授戒制度を新設しようと志した。しかしながら、すでに根付いていた国家制度を根本から変えようとしても、そう簡単に実現できるものではない。(中略)
ところが、最澄の亡くなる前日、この主張が遺言として嵯峨天皇に届けられると、たちまちに天皇の許しが得られることとなる。そしてその許しが正式な書類として公になったのは、最澄の死後七日目の弘仁一三年(八二二)六月十一日のことだった。三司から独立した、例外中の例外の寺院、延暦寺の誕生である。そして翌年の四月十四日には、記念すべき第一回の大乗戒による授戒が執り行われた。嵯峨天皇宸筆の「光定戒牒」は、師の志を実現しようと奔走した光定の悲願の結晶とも言えるだろう。
はぁーん!泣いちゃう。
三司というのは、寺院の管理をしていた国のお役所の総称ですね。最澄の時代は、出家や受戒も、全部管理下に置かれていたそう。
仏教は、国を管理するための宗教でした。
以下余談。
ラウンジに天台宗のお坊さんがいらして、御朱印?何かそんなようなものをくださるコーナーがありまして、はて?本格的だな?と思ったのですが……
東京国立博物館のすぐ裏手に、東叡山寛永寺という天台宗のお寺があるのですね。
とーはく周りって、なんか気がよくて好きですよ。
ちなみにおかざき真里先生のトートも買って帰りましたよ。なんか誤植あって凹んだけど…
ついでにミュージアムシアターでVR作品『空海 祈りの形』見てきましたね。(阿吽オタクなので)
ナビゲーションしてくれたのは、声優さんなのかなー。
あと入場待ちの列が結構長かったので、特設されてた梵字カフェにも寄りました(干支によって梵字書いてくれる)
シールももらった。
東洋館にも寄ったんだけど、時間がなかったのでざっとしか見られなかった。
「クルアーン」って資料がたくさんあって、大きな聖書みたいな?
なんだろなーって思ってたら、「コーラン」か!!!
文字族なので文字資料がとても気になるのでした。